歴史のまちを歩いてみました

 我々夫婦が営んでいるMADOは東海道に形成されたまち有松にあります。今更ですが、まちの話から始めます。

私にとっては、江戸時代を彷彿とするまちなみは子供の頃から馴染みの光景ですが、ゲストハウスにやって来るゲストからすると、名古屋市内の住宅地でしかも駅から程近い場所なのに、通りを一本曲がると出現する江戸時代のまちなみは、おのずと歴史を感じるもののようです。

MADOの建物は築約100年で、周囲からは「まだ新しいからなぁ」と言われておりますが、お向かいの建物は築約230年というのですから無理もありません。

有松は東海道が整備されてから形成され、400年ほどの歴史があります。絞り染めを産業として、数々の浮世絵も残されているほど栄えたまちです。


MADO向かいの山形屋さんの浮世絵 建物はそのまま現存しています

そんな有松の木と畳の部屋で旅人にしばし時を忘れてくつろいでもらっているのですが、有松には他にも有名な史跡があります。

「桶狭間の戦い」って聞いたことがありませんか?歴史の教科書にも載っている織田信長が今川義元を倒した戦です。その桶狭間は有松町内にあるのです。


Go Toトラベルも一旦停止になり、正月予約もキャンセルとなって静かな正月2日にステイホームばかりでは気が滅入ると、桶狭間近辺を歩いてみたのでした。そうすると小学生の頃からよく知っているはずの桶狭間の戦いが、当時覚えた歴史とは違っているではないですか!


まずは、自宅から出発です。自宅から桶狭間古戦場公園へは約1.5Km(徒歩20分ほど)の距離です。まっすぐ向かっては物足りないので、有松神社へ寄ってお参りをすることに。

有松神社は高根山という小高い丘の頂上にあります。かなりの傾斜地に住宅が並んでいる脇の坂道を登って、息を切らせながら到着です。何十年ぶりでしょうか、ここに来たのは。ある意味新鮮な気持ちでお参りできました。

お参りの後、そこにある古戦場の観光案内板に気づきます。そこには、この高根山には今川軍の松井宗信軍約千名が着陣したとあります。小高い高根山からは、その日も遠く名古屋駅付近の高層ビルも見ることができました。当時、織田軍が作ったいくつかの砦は、目の前で丸見えだったことでしょうよう。その案内版には、高根山付近での激戦の様子が書いてあり、一気に桶狭間の戦いの様子を知りたくなって、桶狭間古戦場公園へ向かうのでした。


有松神社(高根山)から名古屋駅周辺の高層ビルを望む

古戦場公園は小さな公園ですが、信長や義元の銅像の他、合戦の様子をジオラマにした庭が作ってあったり、ARを用いて史実を説明するなど、私が小学生の頃の公園とは全く別物になっています。当時の戦況を簡潔に書いた案内板を見ると、義元が京都へ登る際に信長がかけた奇襲攻撃だとか豪雨の中攻め込んだという私が覚えた史実とは違ったことが書いてありました。


桶狭間古戦場公園にある案内 戦術を練って信長が戦ったことがわかります

信長は、義元が攻めてくるようにしむけ、スパイを事前に送り込み、敵を欺くにはまず味方からの教えに従った戦術を巧みに練り、地の利や天候を生かし、そして人を駒として使う非情さで勝利を勝ち得たようです。2万5000の軍勢に3000あまりの勢力で挑んだ戦です。まともに当たっても勝ち目はありません。今川軍を分散させるために、砦にいる兵士などを見殺しにしたのです。

観光案内板の記述ですから、戦の恐ろしさは強調していませんが、その戦法からは人を人と見ない、家臣を捨て石のようにしてまで勝利に固執する非情さがうかがえます。

勢力に大きな差があった義元に、わざわざ仕掛けた戦に勝算があったとは思えません。単なる戦好きなのか、本物のうつけ(バカもののこと)なのか?

郷土三代英傑の一人、織田信長。私の小さな頃から植え付けられていたその憧れに似た信長観は、いかがなものだったのでしょう。


信長は、戦に勝つためには兵力だけでなく、金が必要だと考えていました。戦の時に持たせる兵糧は白米だったとか。「白い飯を食べられるのであれば死んでも良い」と思う農民もいた時代に、金で人身を買うようなことだったのかもしれませんね。

ついていく家臣にしてみれば、いつ捨て石として戦に出ることになるのか、疑心暗鬼になったことでしょう。結局はそんな家臣に首を取られてしまうのも、うなづける気がします。


お金を儲けることを奨励して楽市楽座を作るなど、近代商業の面からは功績が多いのも事実ですし、その考えが江戸時代に有松をはじめ瀬戸など名古屋一帯で商業が栄える礎になったのかもしれません。ただ、それは戦に勝つための方策だったと考えられます。乱世に生き、「誰にも負けたくない」という強い自我を持った信長を考えながら、古戦場公園を後にしたのです。


帰り道は、義元が破れて通ることがなかった大高道を通ってみました。桶狭間の戦いの前日に松平元康(のちの徳川家康)が大高城へ兵糧を運んだ道です。私が子供の頃には、道の周りは雑木林で何もありませんでしたが、今では真新しい住宅が整然と並んでいます。

徳川家康は、この桶狭間の戦いの翌日、生誕地岡崎に逃げ帰りますが、敵として戦った信長の恐ろしさ、彼の戦に勝つという欲望の強さを目の当たりにしてどう考えたのでしょう。逃げ込んだ寺で追手に命を狙われ自害しようとした時、和尚さんからかけられた「厭離穢土欣求浄土」(えんりえどごんぐじょうど)、乱世を終わらせ平和な世界を作れという言葉を生涯旗印にしていることからも、その時の味わった恐ろしさがわかる気がします。本当に平和を希求したのでしょう。


ここでは書ききれない詳しい史実も明らかになっています。戦に直面した時の人の心情はいかがなものだったのか?実際の地を歩いて探訪するのも面白いです。

今年は、よもやま話をしながら私と有松を歩くツアーなど開催してみようかと思っています。早くコロナが収束してくれることを願いつつ。


ゲストハウスMADO

大島

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